2015.8.30山田町メンテナンス

2015年春。
3回目の桜の植樹が、岩手県下閉伊郡山田町で行われました。山田町では、津波の犠牲になってしまった800名の鎮魂と慰霊、そして、未来の町のために800本の桜を植樹する予定です。2015年8月30日。桜のメンテナンスに伺ってきました。
【桜のメンテナンス報告】岩手県下閉伊郡山田町「結いの桜山」

山田町2015年メンテナンス

当会スタッフのほとんどが、花に携わる仕事をしています。花の業界の皆様にホットなニュースをお伝えしている、株式会社フローレ21の「ホットニュース331号」(リンクは原文PDFファイル)が配信されました。その中で、当会共同代表小池が「山田町日本一の桜山計画」についてのコラムを発信いたしましたので全文をご紹介いたします。

ホットニュース331号「山田町日本一の桜山計画」

山田町 三春滝桜

「山田町日本一の桜山計画」
株式会社フローレ21 代表取締役社長 小池潔
(NPO法人 さくら並木ネットワーク共同代表)

 3.11岩手県下閉伊郡山田町、大震災の津波により多くの犠牲者を出してしまった。

 山田町は三陸で最も津波に強いと言われた町です。南北の半島が円状に海を取り囲む山田湾が湾口500㍍と狭い上に、湾内の幅は最大4㌔に及ぶ。波は広い湾内で威力が減殺され、普段は白波さえ立てず、台風の時は船の避難場所となっていた。

 昭和三陸津波(1939 年)は岩手県沿岸部で2500人以上の死者・行方不明者を出したが、当時の山田村の死者・行方不明者は7人だった。その後の津波や台風でも被害は軽く、三陸で最も波に強い湾と評されてきた由縁だ。

 その山田町がなぜ東日本大震災でこれだけの被害が出てしまったのか。3月11日午後3時すぎ、町中心部の住民が避難した高台でこんな声が上がった。「山田は今回の津波でも大丈夫だ」。住民によると、高台から見えた最初の津波は、じわじわとあふれるような様子だった。勢いは弱く、高さ3㍍の防潮堤に跳ね返された。

 最初に見えた津波が低かったことに安心した住民が自宅に戻り、その後の大津波にのみ込まれたという。波静かな山田湾という住民の固定観念が、被害拡大につながった。

 高台にとどまった住民は約10分後、信じられない光景を目にした。潮が引いて、湾内に浮かぶ二つの島の間の海底500㍍が完全に露出し、間もなく、大きなうねり
が襲った。そして、一瞬にして海面が盛り上がり、防潮堤を超えた。町に戻った大勢の人が次々とのみ込まれ800人に及ぶ犠牲者を出してしまった。

 私が細沼氏と最初に山田町を訪れたのは4年前の2011年、まだ多くの瓦礫が町中に氾濫し、目を覆うような光景だった。

 山田町を訪れた我々の目的は山田町で震災前に500本の桜を管理していた藤原親子だった。父親の藤原氏は500本の桜が津波で流されたこと、その桜を自分の山の木を切り倒し、そこに再現すること我々に話した。我々をその山に案内してくれたが、桜が植えられるまで山を整備するのは至難の業だと感じた。また親子が話の端々で意見が違っていた。

 素晴らしいプロジェクトだが、スタートするまでには時間がかかると感じた。しかし藤原親子の共同作業が、翌年の桜の植樹に漕ぎ付けてくれた。2012年は桜を植えたのは藤原氏の山だけだったが、4年間で両隣の二人の地主さんの山、さらに山田町の山、合わせて4つの山に桜が植えられた。

 そして今年、国の予算が付き、桜山を見上げるように幹線道路が整備される。町も山に何本かの遊歩道を計画した。そして町がイニシアチブをとり、桜のメンテナンスを行っている。「さくら並木ネットワーク」は町とともに8月30日草刈りを実施した。ボランティア、山田町民、山田町職員、さくら並木のメンバー、総数50人で行った。藤原氏も町も、津波で命を失った800人分、800本の桜を植えると宣言した。

 現在植えられている桜は600本近くに達している。震災前に18600人の人口が16000人をきり、さらに流出していると役場は嘆いた。「日本一の桜山プロジェクトがこれ以上の人口の流出を止めてほしい」桜山の頂上に立った、「船越湾と山田湾が一望できる、これほどの景色がどこにあるのか」海からの風は私たちに安らぎと癒しを運んでくれた。

 あと2年で桜の植樹は完成するが、10年後、どれほどの人達に希望や夢を与えてくれるのか、私も生きていることができれば、見届けたいと思った。