2014年5月。現在までに植樹した桜と現地の皆様に会いに、そしてボランティアに、東京から東北へ伺いました。
あれから3年。工事が進む中心地とは対照的に、手付かずの地区もまだまだあります。仮設住宅に暮らす方々からは「3年も経つのに・・・」と、先行きのわからない状況の中で不安を抱えながら日々過ごしている、との声。
その中で「桜が咲いたよ!」「成長が楽しみ!」「みんなで手入れしてしてるんだ」そんな言葉もいただきました。
5月4・5日の桜たち
ゴールデンウィーク。遅咲きの八重桜がかろうじて咲いているタイミングでほとんどの桜たちは、青々とした葉をたくさんつけていました。
南三陸町
防災庁舎で黙祷をささげた後、眼下に防災庁舎や中心地が広がる、南三陸町志津川地区の上山八幡宮へ。2012年の春。特別植樹(桜基金C)で3年生の桜7本とシンボルツリーのシダレ桜を植樹しました。
すべての桜が大きく育ち元気な葉をたくさんつけていました。
その後夕暮れ時、波伝谷地区へ。
波伝谷地区は80世帯が津波で全壊。集落そのものが失われました。
南三陸の語り部の後藤一磨さん(東北学院大学客員教授)の言葉を想います。
「高台移転をしようとしたら有力地の多くは縄文遺跡か中世の館跡。我々現代の人間がいかに自然と語り合っていないのか、慢心していたのかを思い知らされた。今回の被災は我々人間のともに生きる海と大地への不遜がもたらした側面もある。この上さらに高い堤防を築いて自然にあらがって海辺に生きようとするのでは、一体我々は何を学んだのかという事になる。しかるべき高台に移転し、海を見て花を植え、木を植えて海とともに生きる。」
しかし3年が過ぎても、高台移転の場所も時期も不透明のまま、皆さん仮設住宅で不安な日々を送られています。
そんな中で桜たちは皆きれいに咲いたそうです。この地の皆さんと共に桜を見守り続けます。
翌日、気仙沼に向かう前に今年の春、南三陸清水浜地区に植樹した桜もチェック。どうやらちゃんと根付いた様です!
気仙沼・天ヶ沢地区
この地区は、海側と山側から大津波が襲い、9名の犠牲者と甚大なる被害受けました。震災翌年の2012年3月10日、地元の住民の皆様・ボランティアの方々・当会スタッフ・総勢60名ほどで、成木を9本、多数のエドヒガンやシダレザクラの1年生の苗をこの地域の植樹希望があったお宅(私有地)に手分けして植えました。
地元の造園業者の方が、桜のために水はけが良くなるよう道を作り、地域の方々が草刈等のメンテナンスを行ってくださっています。
沿岸部の多くの地域で、復興住宅の目処も立たぬまま、巨額の予算を投じ100年後になるかもしれない津波対策で巨大防潮堤建設計画が進んでいます。
いつくるかかわからない未来の津波対策より、まずは今を生きる人々への対策を。そして、海と自然と共に生きる道を。地域の方々の想いを考えると憤りを感じます。
震災翌年に植えた1年生の枝垂桜にたくさんのかわいい花が咲いていました。
皆さんの希望に繋がりますように・・・
5月5日・23日の陸前高田の桜
陸前高田
5月5日と23日。2回にわたり陸前高田に伺いました。
津波で家と想いのこもったたくさんの植物・花々が植えられていたイングリッシュガーデンを失ってしまった吉田さんの陸前高田「花っこ畑・希望の庭」と、すぐ目の前の津波の到達地となった高台に、2012年の春、合計30本の1年生の苗木を植樹しました。
5日に伺ったときは、遅咲きの桜が一本花をつけていました。
23日。ボランティア活動で伺うと、桜達はスゴイ勢いで成長している真っ最中でした。
海の塩が入ってしまったこの土地は、吉田さんはじめ地域の方々、おおぜいのボランティアさんや関係者の方々の手により新しく土を入れ嵩上げし、様々な花々・植物が植えられ「花っこ畑・希望の庭」として再生されました。そのガーデンを囲むように植樹された桜。
地域の方々の愛情を受け桜達は驚くほど大きく健康に育っていました。
すぐ目の前、津波のときに避難した高台近くに新設された民宿さんの桜並木も強い海風にも負けず元気に育っていました。民宿の前の道路をはさんだ反対側の津波になぎ倒されてしまった桜は、今年も脇芽を伸ばし成長していました。(折れた桜の向こうに見えるビニールハウスが「花っこ畑・希望の庭」)
陸前高田では、嵩上工事のため工事車両がたくさん行きかっている状況で、これからどうなっていくのか住民の皆さんは見守っている様子。
そんな中で、「花っこ畑・希望の庭」の花たちは、多くの人たちが集い心を休める場所になっていました。