4月9日。福島県新地町で仮設を出られ新居を建てた2世帯の依頼者様のところに3本植樹してきました。

よくさくら並木ネットワークに桜を植樹依頼される被災地域や依頼者様の目的って何だろうという質問をされたりします。これは本当に地域や依頼者様によって様々でひと言では答えられないものです。

複合的な目的もあったりしましたし、意外と思われるかもしれませんが被災したことを忘れるために華やかな桜がほしいという地域もあったりしました。

ですからさくら並木ネットワークは当会が目的を決めて植樹するのではなく、あくまで被災地域や依頼者様の要望に合わせた植樹をしていくのですね。

ただ桜はたくさんの物語を作る力のある植物です。

もともと被災地域や依頼者様の桜の物語があったり、またあらたに桜を植樹することによって物語ができたりもすると思います。

福島県新地町・桜への想い

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4月9日の植樹の依頼者様である村上夫妻もそんな桜の物語を持っている方達です。

村上夫妻は震災前は旅館を経営してましたが、津波で旅館は破壊され廃業。去年の年末にやっと仮設住宅を出られ新居へ引っ越しました。

今日はその新居に二本の桜を植樹してきました。

村上夫妻は平成12年に娘さんをご病気で亡くされています。
その娘さんに思い出につながる桜の物語があるのです。

奥様である美保子さんがfacebookにそのことを書いており、さくら並木のページに載せてもいいと許可してくれましたのでご紹介いたします。

平成12年3月。
「菜穂子さんは、今月いっぱい持つかどうか・・・・」
と、お医者さんに言われました。

この日が来ることを覚悟していたはずなのに、頭も体も空っぽになったような気がしました。
旅館と病院を行き来する日々。春が来たことにも、気がつきませんでした。

真夜中、二階の廊下から、娘が記念に植えたもくれんの花が咲いているのが見えました。
まるで白い鳥が、たくさん止まっているように、それは、それは、見事なぐらいの数の花が咲いていました。
「がんばれ!」
と、私と娘に言っているかのようでした。

4月になり、桜を見たいと言う希望を、主治医の先生が、かなえてくれました。ストレッチャーでは、自分の美学に反すると言うので、車椅子に乗せて、酸素吸入や点滴など、たくさんの機材をつけて、主治医の先生や大勢の看護婦さんと一緒に、病院の桜でお花見をしました。

それから、ちょっとだけ長生きをして、6月に旅たっていきました。
翌年、もくれんは、花をつけませんでした。根元に近い枝に、見たこともないほどの大きな花をひとつ咲かせた以外は。

私は、もくれんの木に抱きつき、泣きました。
「あなたも菜穂子が亡くなったことを悲しんでくれるのね」
と。

我が家が出来て、友人の設計士に、庭に何を植えるか相談を受けたとき、桜ともくれんは必ず入れてくれるように頼みました。

我が家のもくれんが咲きました。
白い鳥がたくさん止まっているように見えます。
桜のつぼみも膨らんできました。
菜穂子も一緒に、この家にいると感じています。

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今日植樹した桜もいずれ心優しい村上家のあらたな物語となってくれることでしょう。

植樹が終了した後、村上さんから大切なメッセージをいただきましたのでご紹介します。

今日は、ありがとうございました。

桜が咲くまで、娘は生きられないと思った主治医の先生は、3月の末に病院の庭の桜の枝を切ってきて、病室に活けてくださいました。
暗くなるのを待って、こっそりと切ってきたと、いたずらっ子のような笑顔で、大きな花瓶に活けてくださいました。

病室の暖かさで、桜のつぼみは、たちまち満開の花を咲かせました。
娘は「先生は、桜も処方箋に書いたのかしら。相馬で一番早いお花見だね」と言って大喜びしました。

そして、今日か明日かと言われたのに、ちょっとだけ元気になり、4月に本物のお花見をすることが出来ました。
桜は、あの子にとって、何よりの薬になったと思っています。

本人のたっての希望で、アイバンクに角膜を提供しました。
娘は亡くなってしまいましたが、角膜だけは、まだ、誰かの目の中で生きていて、今年も満開の桜を見ることでしょう。